私からみた東日本大震災

防災を取り入れたちょっといい暮らし方をご提案!

楽しい気持ちをそなえる 防災ライフプランナー水口綾香です。

 

私にとって、東日本大震災での経験は忘れられないものとなっています。

その経験が、今こうして防災や防災備蓄について伝える活動の原点になっています。

主婦になり、母になり、転勤の末誰も知り合いがいない土地で、夫が仙台に日帰り出張中に東日本大震災がおこりました。

母一人子一人でむかえた東日本大震災から学んだことをお伝えしたいと思います。

去年も書こうとしたけど書けなかった私の目から見た東日本大震災ですが、8年たった今年は最後まで書いてみようと思います。

 

挨拶は大事

その日も私は1歳8か月の息子とお弁当をもって近所の子育て支援センターに遊びに行っていました。

開園と同時に遊びに行って、お弁当を食べて絵本を読んで支援センターを出た帰り道、遊び疲れた息子が寝ている間に買い物をし夕飯を作るという日課を過ごしていました。

寝ている間でなければ買い物も料理もままならない毎日。

引っ越して8か月、息子はなかなか仲の良い友達ができず、場を一緒にしていたお子様のお母さんとも顔見知りにはなれど友達というところまでいかず、下手したら通りすがりのおばあちゃんが話しかけてくれなかったら誰とも会話をしない日々をおくっていました。気軽に話かけられる仲の人は1人もいない状態でした。

さて、その日もしっかり遊んで家に帰り、夕飯を作り終えて一息つこうとしたときに、東日本大震災が発生しました。

ゆれた瞬間息子に駆け寄りました。

いつも以上に長い揺れは途中で今まで経験したことのない大きな揺れにかわり、食器棚が傾きその上にあったレンジや炊飯器が転がりおちて、ガス台の上にあった夕飯の味噌汁が床にぶちまけられて部屋中お出汁の香りがひろがりました。その当時ご飯を炊くのに使っていた土鍋も割れてしまいました。

さっきまで自分がいた台所は悲惨な光景になっていましたが、息子はスヤスヤ昼寝したままおきませんでした。

揺れが収まってとりあえず家の外に様子をみに出ましたが、特に目に見える範囲は変わった様子はなかったので部屋に戻り、傾いた食器棚を戻して台所の掃除をしました。(見えなかっただけで、道路の1本向こう側は液状化していました)

しばらくして、家まで私たちの様子を見にきて声をかけに来てくれた人がいました。

隣に住んでいた大学生と大家さんでした。

お二人とも、「小さい子と2人で大変でしょ?大変なことがあったら言って」と声をかけてくださいました。

友達も、親せきもいない土地で、夫も週5で出張に行ってしまうなかで、助けに来てくれる人がいる事がとてもありがたかったです。

後々になって声をかけてくれたお二人にお礼をいいに行ったときに言われたのが、「小さい子をつれていつもニコニコ挨拶してくれるから、地震があった時にすぐに頭に浮かんだので真っ先に行った」という事でした。

その時の私は、下手したら誰とも一言も言葉を交わさないまま1日が終わる事がしょっちゅうあるような状態で、自分になにかあっても助けてくれる人はいないだろうと思っていました。

でも日頃の挨拶だけで、実際に助けに来てくれる人がいました。しかも一番最初に様子を見に来ていただいていました。

転勤でたまたま住んだ土地だったので、地域との交流なんてなかったのですが、挨拶が地域の方と結び付けてくれていました。

笑顔で挨拶、大事です。命に係わるほど大事です。

失うという事の大きさ

幸いにもわが家はライフラインが止まらなかったので、直後からテレビで情報が得られました。

テレビをつけたときに映っていたのは、迫る津波から逃げる1台の車でした。

その車を見て、夫がその日仙台に日帰り出張にいったことを思い出しました。

海沿いの町にも仕事で向かうことがあると聞いていたので、その瞬間から津波から逃げる車が夫としか思えなくなりました。理性では夫とは限らないとわかっていてもダメでした。

逃げてって叫びたくても声も出なかった。本気で夫を失ったと思いました。

育児でいっぱいいっぱいで、当日の朝夫が家を出るときに最後に何を話したかさえ覚えてない事を後悔しました。

よくマンガでショックを受けた時に石化して砂になる描写がありますが、本当にマンガ通り自分が砂のように崩れるのを感じ、実際膝から崩れ落ちてました。

数時間後に電話がつながって、夫の声を聞くまでずっと震えが止まりませんでした。

家族や支えを失うってこんなにぽっかりと穴があくんだ…という事を、たった数時間ですが体験したのでした。

あんな思い2度としたくないし、私の周りの人にもさせたくない。失ってからでは取り返しはつかない。

それが今の私の活動の原動力になっています。

備えがなければ子どもに子どもらしく過ごさせてあげることすらできないという事

夫の無事もわかりましたが、同時に帰ってこられないこともわかりました。

母子2人で数日すごすことが確定したわけです。

多くの方がお亡くなりになった報道を聞いて、悲しい気持ちでいっぱいで、楽しむとか笑うとか全て自粛しようとする自分がいました。

気が付いたら当時1歳8か月の息子に 家の中でさえも大声で笑うことを控えさせようとしていました。

家の外に出たとしても店の列に並ぶために1日をついやして、空っぽの棚に落胆するだけで何も買えない。

なのに、家にある食べるものもなくなりそうだから、また別の店に並ばなければならない。

息子を遊ばせてあげる時間はありませんでした。

爆発寸前の息子をみてようやく、子どもに被災者を押し付けようとしても無理だ!と気が付きました。

余震が続く中 思い切って普段通りに母子二人で踊って笑い転げた時、救われたのは息子ではなく張りつめていた自分でした。

普段通りの「日常」に一瞬でも戻れるときがあると、災害時に受けるストレスが軽減されることを身をもって体験しました。

そして「楽しい」や「おいしい」というプラスの感情は「日常」を思い出させてくれるキーになると学びました。

だからたとえ災害時でも「フフ」と笑う時間をふやしたいと、フフジカンという屋号にしました。

「楽しい気持ちを備える」のモットーもこの体験からきています。

日頃の備えが楽しいだけでなく、災害時にも「楽しい」は救いになります。

備えの重要性

震災がおこる前8か月前まで仙台で暮らしていました。

仙台で妊娠出産した私にはその時に良くしていただいていた「仙台の姉さん」的存在の方がいました(以下、姉さん)

姉さんは津波被害のあった塩釜の方でした。

私は当時自分もしんどかったですが、それ以上に姉さんが心配でした。

被災地では口にすることの出来ない愚痴を少しでもはきだしてもらえたらと、姉さんとメールのやり取りを始めました。

これはあくまで私がそのメールから私の視点で受け取った内容です。姉さんが伝えたかった事実はもっと違うのかもしれないですが、私が受け取った事を書かせていただきます。

そのメールのやりとりでは、

自宅がマンションだという理由で半壊の被害を受けているにもかかわらず避難所から自宅に帰されたこと。

ひびの入った壁の中余震を過ごす恐怖。

食べなければ命をつなげないけど食べて食料がつきたら命をつなげない恐怖。

石油ストーブの灯油が切れたら調理も暖も失う恐怖。

毎日の水の配給の重さ。寒さ。疲れ。体の痛みでした。

1週間ほどして夫が帰ってくることができました。

その時に夫が経由した山形には食料があり買えると聞いたので、何とか姉さんに食べ物を手に入れてほしくて山形に買いに行ってはと伝えました。

でも明日の命がかかった水の配給をもらいに行かなければならない中で、水を差し置いて1日かけて買い物に行く事は選択肢にすらなりませんでした。

水の備えがあれば。食料の備えがあれば。燃料の備えがあれば。

備えは必要です。命をつなぐために必要です。

遠く被害のなかった場所には伝わらないという事

夫が1週間ぶりに帰ってきましたが、すぐ仕事で福島に行くことになりました。

さすがに私も疲れたので、少し休みたくて札幌の夫の実家にお世話になることにしました。

そこで見たのは、煌々と灯りのついた街でした。

関東では計画停電を少しでも減らすために誰もが節電をしていました。

北海道は東北に送電できない仕組みで、節電しても意味がない状況だったので当たり前なんですが、電気も暖房もしっかりついていて、そのギャップにものすごい違和感を感じました。

そして街だけでなく、人々の震災に対する温度も全くちがいました。

これも札幌には大きな影響がなかったので当たり前の事なのですが、大変なことがおこっていることはわかっているけど遠くの被災地で起こった他人事に感じている人が多かったように感じました。

塩釜や仙台からきいた温度と習志野も違いましたが、習志野と札幌もそれ以上に違いました。

胸は痛むけど募金もしたしそれ以上にできることはない。できることもないのにいつまでも気にしても仕方がない。

それが札幌のすべてとは思っていませんが、私の周りではそう感じている人が多かったように思います。

無理もない事ですが、その時はとてもショックでした。震災後2週間でしたが、他人事のすでに過去のことになりつつあったと思います。

正常性バイアス

札幌に来ても、塩釜の姉さんとのメールは続いていました。

私が札幌の温度に慣れると同時に、私の気持ちは姉さんのメールから離れていました。

それに気がついた時、私は自分はなんて薄情な人間なんだろうと、自分さえ安全な場所にいればそれでいいのかと自己嫌悪になりました。

自分を責めました。ちゃんと誠意をもってメールを返そうと思ったけど、習志野にいるときのように返信できなくなっていました。

平和な札幌の環境に慣れればなれるほど、私の気持ちは姉さんのメールを受け取れなくなっていく。

抗いようのない「平和」という流れにのまれていく感覚に、正常性バイアスという名前がついている事を知ったのは結構最近になってからの事でした。

この抗いようのない「平和」という流れの強さ。この力が人々に加わっているとしたら…

とんでもない強い力でべったりと張り付いている事でしょう。先に述べた札幌の人の温度と合点がいきました。

 

最後に

東日本大震災から8年がたちました。亡くなられた方にご冥福を申し上げる同時に、まだまだ被害が続いていて終わっていない大勢の方に1日も早く心休まる日が戻りますようお祈り申し上げます。

私が千葉県習志野市で経験したのは震度5強の揺れでした。ライフラインも止まらず、大した被害ではなかったのだと思います。

でも私は、その中からたくさんのことを学びました。

私は私の経験をもとに、備蓄の必要性を伝えていこうと思います。

読んでくださった皆様、お読みくださりありがとうございました。

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この記事を書いた人

「楽しい気持ちを備える」をモットーに防災の馴染んだ暮らしを楽しんでいる男の子2人のママ。甘いものが好き♪

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